昭和40年07月13日 朝の御理解



 段々信心が分かって来ると、神様が有り難く頂けて来るようになると心の中に信心の喜びが段々成長してくると。すとそのよろこびがいよいよ本当のものに格好のものになってくる。一時的なものでなくておかげを頂いて来ると、とても信心の度胸が要求される。信心の度胸が出来て、そして確固、不動な信念と云うものが培われる。不動の信念が心の中に頂けてくるようになるから、どのような場合でも驚かんですむ、どのような場合でも安心して行けれる。ね、
 私どもの行く手に、実を云うたら難儀と云うものは無いのである。恐いものは無いのである。けれども私どもはそれを難儀と感じ又は、恐いものだとこう思う。難儀どころではない、神愛の現われであり、恐いものどころではない。いよいよ不動のしんねんを創らせてくださる神様の御神意以外にないのだけれども、信心が浅い間は不安がある。心配する、して臆病になる。
 そこで私は様々の機会をとらえては、その成るほどこういう生き方、こういう気持ち、こういう信心をさせて頂けばこのおかげを受けられると云う体験を積み上げて行かねばならん。例えて云うなら、夜中に例えば山に登ろうと云うてもです、何とはなしに恐い気がする。昼間は何ともないのだけれども、夜山に登れと云ったら気色は良くない、悪かそこで三人なり五人なり連れがあるとかって面白かぐらいなことある。
 そして行ってみたら何も恐いものはない。何も恐いものがないと分かって来るから、段々その二人でも行けれる、いや一人でも登れるようになってくる。ね、群衆心理とでも言うですか、沢山の者がワーワー云うて行くと、そのたいした、いやかって楽しいようなもの、そう云うところを教祖の神様は勢を揃えた信心と仰るのじゃないかと思う。ね、勢を揃えた信心をせよと、一人で持ち上がらない石でも大勢掛け声を揃えて持ち上げれば、持ち上がるような道理とも仰る。ね。
信心の度胸と云うのは普通で云うくそ度胸と云うのとは違う。神様を信じきっての度胸、何とかなるだろうと云ったもんじゃない。おかげにしかならんとこう信念させてもろうてからの度胸。しかもその事が、神様に喜んで頂けるということを確信させて貰う時、愈々その度胸は確固たるものになってくる。ある人が、御造営の為に全然商売をしたことのない人が商売を始めた。そしてその利益を御造営の献納にしたいと。
 とても普通では行けそうにないお家にでもどんどん行ける、そしてそこに商いを全然したことのない人でも、商いのいうなら面白みが出来てくる、云うなら心臓が強うなる。自分の我情我欲の為に、ね、自分の我情我欲と云うではなくて、自分の利益のためにならとても行けそうにない、やれそうにない事がです、大義名文がたつとそれが平気で押しぬいて行く事ができる、やりぬいて行くことができる。
 その内に商売ちゃ面白いもんだと云うことになる。信心もそう云うようなところがある。大義めいぶんの立つような願い、これなら神様が喜んで下さらん筈はない、その大きな門構えのこれは私ども商売さして頂いてから感じた事なんですけどね、もう大きな商いやら出来んごたあるこまい家になら入りよいです。ね、ところが大きな門構えでここで買うて貰うて、これがお得意さんにでもなってもろったら、まあ素晴らしかろうと中々入りにくいもんである。
 裏口からこっそり入りたいごとある。正面から堂々とその入って行けん、それが自分の小さい私欲の事の為でなくて、それがいわば大欲の為、神様に喜んで頂くことの為に、それがなされる時にです、不思議に度胸が出来る、その度胸がです、その度胸と云うものが、これは何時の場合にでもその度胸と云うのは役に立つと云うこと。ですから願いがそのまま神様の機関に適うような願いを立てなければならない。
 同時に大義名分が立たなければならない、同時にそこに勢が揃うたいわゆる同志が必要である。とても一人や二人や三人で行けないところを十人行けば行ける様なもの。一人で山登りが恐くても三人五人と連れが出来たら、恐いどころかね、云うなら面白半分にでもその山に登ることが出来るようなもの。ね、そしてははあ恐いところはないんだなと確信させて貰うようになる。
 一人でも楽しゅう登れるようになる。それが自分のもの。そうですねえ、私昨日、文男先生と話したことなんですけど、兎に角一家の中心になる、ね、お広前の中心になる、例えば一つの団体の中心になると、村内の中心になると、と云う様な人たちがですほんとに中心になれるだけのやはり内容と云うものがなからなければ駄目だと云うこと。皆んなが集まってさあどうしょうか困った難儀な問題と云うておる時に。
 こりゃ心配いらんがのと、こりゃこうなるがと胸を叩くようにして云えれる、成程あげん云わっしゃる通りにおかげになって行く時に、その人は皆から尊敬される。家のなかでも同じ事。ね、こう云うじとつ難儀な問題があるけれども、お父さんがひとつも難儀な顔してござらん。ね、ニコニコしてござる。それで他の者も安心する。そう何時もかつも難儀な問題があると云うわけでなくてもです、そう云う中に何時もかつもお父さんの云われる通りにしておけば間違いないと云った様なものが生まれてくる。
 こりゃ家庭に於いても、社会に於いても、お広前に於いてもそう。大きな問題が、例えば御造営なら御造営と云ったような、今度の大きな問題でもです、ね、いよいよの時は私たちがおる、と云った様な信心内容が出来て、ね、総代なら総代、幹部なら幹部のかた達がです胸を叩いて其の事に取り組んで行けるような時にです、他の人たち皆それに付いてくる。大体思い立った、思い立ったばってんでけることはでけるじゃろうかちゆう不安なことを云うたり思うたりしておっては、誰も付いて来ん。
 いよいよさあ、いよいよ壁にぶつかったと云ったような時にです、誰さんが彼さんが、ね、こりゃおかげがのと、大丈夫とたとえば云い得る丈の信心。そう云うものを私は神様を信ずる力というものを鍛えにも鍛え積みにも積んでおいて、人がどうなるだろうかと言ったような時にです、胸をたたいて言えれるだけの度胸というものがです、その人の信用というものを確固たるものにする。
 そして皆にやはり尊敬もされて行く、これは家庭に於いても同じこと。どうしようかと、どうしたらなら良いじゃろうかと云うて一緒に心配をするようなことではです、おかげにはならん、ね、だからもういよいよ例えば自分が尊敬されてないとか、自分がそのそう云う様な場合です、ね、いよいよの時自分に確固たる信念が無いから度胸がないからだと悟らせて貰うて、いよいよ信心の度胸の培われる様な、出来る様な信心をさせて貰わなければならん。
 しかも自分の心の中に明るい正しい願いを持ってそれに向かって精進させて貰う努力させて貰っておる時にはです、不思議に心の中にはゆとりがあるし、安心がある。ところで自分自身が只ごまかし半分、ここでもそうです、私の信が弱い時、先生どうしましょうかと言ったようなことが起こって来た時に、私がどうしましょうかと云うとる丈ではいけん。心の中でああどうしょうかと思うて顔色やことば丈でああ心配いらんがのと云うたっちゃ相手には通じない。ね、
 もう十年も前だったでしょうか、私は二階に休んどった、もう遅かった。そしたら久富組の正義さんが或る大変な、其れこそびっくり仰天するような問題でお願いに来た。私は寝てから動かじゃった。そりゃ心配いらんがのち、ね、こういうしてきゃええち、そん時に正義さんが降りてきて御祈念して帰りながら思うたと、はあ、こりゃ大丈夫と先生が寝ながら大丈夫と仰ったち。
 私があん時にそりゃ大変な事が起こった、ちょっと待たんの一緒に御祈念させてもらうと云うたら、やはりそれは尊いことではあろうけれどもです、あれだけのあの時の安心はあたえきらんじゃっただろうと思うた。問題は度胸なんだ、その度胸もくそ度胸じゃいかん、日頃のこうなりゃああなるものだと云うのをです。こちらがこう云う信心すりゃこう云うおかげを受けられるもんだと云う信念をもってのことでなからなければ、その不動の信念は生まれてこない。
 日頃如何にいうなら偉そうなことを云うておっても子供が腹んせくち、そりゃもう青うなってからさあ早う薬と、それでんまだ痛みん止まらんなら早う病院に電話せなこて、もう神様なんか忘れてしもうてから、そう云うようなことではです、そう云う時にどうでしょう、大丈夫がのと、お母さんがお願いしよるけん、ちゃんと今日お届けしとるけんで大丈夫がのと、おとさんご祈念するから大丈夫が、サアー御神米、サアーお神酒さん頂いてと例えば本当にそこんところに安心、度胸の気持ちが出来て、度胸がそれが云える時です、おかげ頂くです。
 どんな場合でもお父さんにお願いすれば、お母さんにお願いすれば、お母さんがニコニコしちゃるけん心配はなと云った様なものが、家族全体に云わばみなぎって来るようなおかげ。二三日前もそんなお取次させて貰った。ありゃもう本当にまあ云うならばです、信心がでけてござるごたる。ところが子供は盲腸んせく、初めはどうこういうち、心配せんでんおかげになるがち云よった。
 ところが子供が泣きだした。そしたら自分まで泣きだした。ほら痛かろう、サアー病院、サアー手術はしとりませんね。ね、チョット人のことならほんとにおかしなごたるけれどもこと自分の時ですたい、それがね、くそ度胸で云うた分じゃ危なかです。ね、ですから本当に神様が分からせて貰う段々おかげを頂くようにならせて貰うとです。ね、本当に神様にお縋りしておるのだからと云う気持ち。
 それもお縋りしておる事がです、さっきからも申しますように、ちょっとこの大義名分が立つところの願い。ね、そういう信心、そこから生まれてくるのは、いよいよの時にはままよと云うどん腹ができる、度胸がでけるということ。ままよとは死んでもままよのことぞということ。そうですよこの位い素晴らしい度胸はないです。ひょっとしてこれは死にどんするならどうするか。
 そんな気持ちならある程度のときならまあ、それはほんなもんじゃない、ね、もし神様がね、こと生命と云うたら一番大切なもの。お互いとして、その生命でも神様が召されるのならと云うだけのもの。その度胸が出来なければ、云はばおかげ丈ではない、十二分の徳を受けようと思えばと仰るその徳はうけられない。ね、徳を受けて行くからいよいよ不動の信念が生まれてくる。
 確固たるものが生まれてくる。度胸が生まれてくる。そこを繰り返し通らせて頂いた人程です、いわば信心のはくが付いてくる。そういう人が中心におるとです、その人は皆から尊敬を集めることができるだけでなくて皆にも同じ安心を与える事が出来る。そう云う例えばいよいよの時ままよと云う度胸が出るおかげを頂くことの為に、日頃にです、自分一人ではない一人では山に登りきらんといった山にでもです、五人十人で登れるようなチャンスがある時には一斉に登ってみなければならん。
 そしてやれるもんだ恐いことはない、ね、「幽霊の正体見たり枯尾花」と、私どもが前途には幽霊はおらん。私どもが前途には恐いものはない、ね、その恐いものはないというのがです、一人では行ききらんでも五人十人連れのうてなら行ってみれる。ああなんだこりゃ幽霊じゃなかったたい、枯尾花じゃったたいとこう分かる。だから次には一人でも行けるようになる。行けれるようになる。
 その心持ちと云うものがです、私どもが幸せを左右する、安心の生活さして頂けることになる。ね、そう云う私はおかげ丈を本当のおかげだと私は思う。ね、お互いの信心の度胸と云うのが、何処まで育って行きよるだろうか、いや信心の度胸を神様が付けて下さろうとするような事柄を、避ける様なことでは何時までたっても度胸はでけん。そんな事では何時までたっても家族中の信を身に受けることすら出来ん。
 お母さんが偉そうな事ばっかり云よるばってんあてにゃならんと云う事になって来てからいよいよ信を失ってしまう。愈々の時はお母さん自身すりゃうろたえおるじゃないか、云うことになる。ね、だからお互いが怪我の無い様なおかげを頂きながらです、その不動の信を創って行かにゃならん。そういう意味合いに於いてです、ね、一人では登れない山道でもです。五人十人連れのうて登れば言わば楽しゅう登れる。
 そして淋しいものでも恐いものでもないと云うことをです、体験させて頂くと云う機会をお互い得なければならないなと。例えば昨日美登里会であつた、美登里会なら美登里会のかた達がね、全員揃うて例えば一週間に一辺ずつの奉修委員のかた達がです、その一緒に揃うて御祈念なさるね、ああ云う様な例えば事柄は非常にこの神様へも向かっても強いものになるだけでなくてです。自分がこの不動の信念を悟って行く為の信心の稽古にはもってこいの事柄だとこう思うですね。
 一人では行けない所でも二人三人信者を伴のうて、例えばお導きにでも行く時に、行くとするならですね、不思議にどういう所にでも行けれる。一人じゃ向こうから私どん信心なでけんけんでと云われりゃそりぎり、ここにどうでも助かって貰わんならん、ここで信心しなさったら、どげなおかげになるじゃろうかと思う様な所にです。思うとる丈じゃつまらん、そういう自分にです、信心の同志なら同志を募って、三人ででも五人ででもです、押し掛けて行くと云う意味じゃないですけど、お導きにでもやらせて貰うとか、信心の信が薄うなってござる。
 ほら今頃あの人余りでけよらんごたるがなにか迷うてござるとじゃなかろうかと一人で行っても中へ巻き込まれるごたる。けども三人五人云はば信の者が五の者が五人持って行けば二十五の力を持ってそこに行ってお話さして頂いたりするとです、普通では出来ないようなお話が出けるようになる。これはいろいろな場合そこんところをそういうチャンスを捕らえて不動の信念を言わば、今日私が申します信心度胸創って行く為の稽古をさせて頂かねばならないと思います。
   どうぞ。